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出会いに導かれて
― 小さなご縁が育ててくれたこと ―

人の人生には、きっと「出会うべき人」がいるのだと思います。思いがけないご縁に助けられ、気づきを得て、学び、そして成長していく。人生は、そうして少しずつ豊かになっていくものだと感じています。僕自身が歩んできた道も、まさにその連続でした。
もしあの出会いがなければ、料理をしていなかったかもしれません。もしあの対話がなければ、今のような考え方には辿り着けなかったでしょう。
人生の節目には、いつも誰かがいてくれました。そっと見守ってくれた人。厳しく叱ってくれた人。そして、心から笑い合えた人たち。その存在が、僕をいつも前へと進ませてくれました。
だから今、料理というかたちで誰かとつながり、ささやかでも恩返しができたらと思っています。ご縁がつないでくれたこの道を、これからも大切に歩んでいきたい。
拙い経験ではありますが、これまでの歩みのなかで感じてきたことを、ひとつの物語として、この場所にそっと残しておこうと思います。
料理と出会えたことも、その道の途中で出会った人たちのおかげ。そしてその“出会い”の原点には、ある記憶が静かに息づいているのです。

料理の記憶は、誰かの笑顔とともに

僕の料理への思いは、幼い頃の、ひとつのささやかな出来事から始まったように思います。家族や友達にふるまった、ほんの少しの料理。それが、僕にとっての原点でした。小さなころから、お菓子作りや料理をすることが好きで、よく台所に立っていたのを覚えています。ある日、知り合いのお姉さんが家に遊びに来たときのこと。僕は冷蔵庫の中を見渡し、10種類ほどの具材を使って、小さな丸いおにぎりをたくさん作りました。ちょっと工夫するのが楽しくて、気がつけば作りすぎてしまったのですが、それを笑顔で全部食べてくれたお姉さんの姿が、今も強く印象に残っています。
その瞬間が、僕にとっての料理の喜びの始まりだったのだと思います。誰かのために作ったものが「おいしい!」という言葉とともに笑顔に変わる――その小さな奇跡に、子どもながら心を動かされていました。また、休みの日には、よくパンやおやつを作って友達におすそ分けしていました。自分が作ったものを「おいしいね」と言ってもらえるたびに、何とも言えないあたたかさが胸に広がって。喜んでくれる顔を思い浮かべながら作る時間そのものが、僕にとっての楽しみであり、幸せでもありました。いつしか僕の中では、「料理」はただの食事ではなく、人と人とをつなぐ、大切なコミュニケーションのひとつになっていました。誰かの笑顔を生むという、料理の持つ力。それこそが、僕の心をとらえて離さなかった、本当の魅力だったのかもしれません。今でも、あの頃の記憶が、僕の中に静かに残っています。料理が人の心にそっと触れる力を持っていること――それは、この先の道の中でも、変わらず大切にしていきたい、僕の“はじまりの想い”です。

高校時代
― 接客の喜びと、悔しさと

高校生の頃、友人に誘われて働き始めたのは、地元でも知られた高級な蟹料理店でした。調理ではなく、当時は人と接することが好きだった僕は、ホールでの接客を選びました。初日は、緊張のあまり店長からの問いかけにも小さな声でしか返せず、その瞬間、店長に胸ぐらをつかまれ「やる気あるのか?」と怒鳴られました。今でもはっきり覚えている、人生で初めての“社会の洗礼”でした。
あまりの出来事に大きなショックを受けながらも、職場の雰囲気は良く、少しずつ仕事に慣れていくうちに、「負けたくない」という気持ちが芽生えていきました。相手は大学生や社会人の先輩たち。彼らに追いつきたい一心で、お客様への声かけや所作、配膳のタイミングまで、あらゆることに意識を向けて積極的に動くようになっていきました。
「どんな小さなことでも自分にできることはないか?」そう思いながら、接客の中で少しずつ存在感を出そうと努力していたあの頃。今振り返ると、背伸びばかりしていた、ちょっと生意気な高校生だったなと思います。それでも、このとき出会った“接客の奥深さ”と“悔しさ”は、その後の僕の働き方や姿勢に、大きな影響を与えてくれました。
母と兄と過ごした日々が、僕の土台になった
その頃、両親が別居し、母と兄と3人で暮らすことになりました。父が仕事に出かけた後、最低限の荷物だけをまとめて家を出るという急な出来事に、驚きと戸惑いを覚えたことを今でも鮮明に覚えています。初日の晩ご飯は、パンの耳だったと思います。そこから母と兄と3人で過ごす日々が続きました。家庭がバラバラになったことで、心の中にはたくさんの不安や寂しさがありました。新築の家から引っ越し、あまりキレイとは言えないマンションでの生活が始まりました。友達にも最初は話せず、孤独を感じていた時期もありました。
そんな中で、支えとなったのは母でした。今でもそうですが、どんな時でも弱音を吐くことなく、落ち込んだ表情を見せることは一度もありませんでした。お弁当の中身も手を抜かず、僕たち兄弟のために一生懸命パートで働きながら、家事もすべてこなしていました。ただ当時は、その母の愛情に甘えてばかりでした。
今振り返ると、母の偉大さに改めて気づきます。そして、今もなお、小さなことでも自分を優先せず、いつも見守ってくれている母に感謝しています。

18歳の挑戦
― 店長としての一歩

高校を卒業した後、私は焼き鳥チェーン店に就職しました。入社時に与えられたのは「店長」という立場。18歳という若さでの店長という挑戦には、当時の店長から何度もその大変さを聞かされていましたが、挑戦したいという気持ちが勝り、私はその責任を引き受けました。
配属された店舗では年上のスタッフばかりで、18歳の私が指示を出しても、当然ながらすぐには受け入れてもらえませんでした。最初のうちは、どうしてもぎこちなく、スタッフとの関係に摩擦が生じることも多かったです。
その中で最も大切にしたのは「コミュニケーション」でした。スタッフととにかく話をし、何を考えているのか、どう感じているのかをしっかりと聞くことを心がけました。お互いに信頼を築くためには、何よりも対話が必要だと痛感したのです。
今思い返せば、まだ未熟だった私ですが、「接客が好き」「店を良くしたい」という純粋な気持ちが原動力となり、少しずつ成長することができました。その頃一緒に働いたスタッフとは今でも大切な仲間として関係を続けており、あの経験が今の自分に大きな影響を与えていると感じています。
転機:ブライダルに夢を見たが…
飲食業とは別に、ブライダルやアパレルにも興味を持ち、退職後にブライダル会社に応募しました。しかし、面接で不採用となり、3ヶ月ほど待たされた末に愕然としました。期待していた道を断たれ、無力さを感じていました。しばらくは有給も尽き、ひとまず慣れている飲食店で働くことに決めました。
新規オープンの居酒屋で働き始め、そこで出会った尊敬する店長からの指導を受けることとなります。店長は、どんな時でも相手の要望に「ノー」と言わず、常にお客様や仲間の立場に立った対応をしていました。メニューにない料理を頼まれれば作り、どんなに疲れていても飲み会や急な集まりには必ず顔を出していました。その店長の周りには、自然と人が集まり、和気あいあいとした雰囲気が生まれていました。
店長の下で働いている間、私もそのお店に誇りを持ち、心から仕事をしていました。ところが、突然社長が飲食店を辞めると言い出したのです。その時、店長は私と同期のスタッフに向かって、「もしお前らがやりたい気持ちがあるなら、俺が店を受け継いでやってみる」と言ってくれました。その一言に背中を押され、「やりましょう」と決心を固めました。
契約上の手続きが完了するまでの1ヶ月ほど、その間に短期アルバイトでアパレルの仕事をしてみました。オシャレな仕事で、接客をして服を売る仕事に挑戦したものの、なかなか売れずにアパレルの難しさを痛感しました。ほんの短い期間でしたが、この経験を通して、自分の進むべき道はやっぱり飲食業だと確信しました。
その後、私は居酒屋の店長に昇格し、料理長も兼任することになりました。しかし、料理を教わったことがない私は、料理を作ることに苦労しました。失敗もたくさんあり、スタッフの人材育成にも悩みました。10人ほどのスタッフ全員が期待通りに応えてくれるわけではなく、スタッフの悩みを解決できずに涙することもありました。それでも、お客様に喜んでいただける瞬間を目指し、試行錯誤を繰り返しました。 この経験は、今の自分に大きな影響を与え、学び続けています。そして、あの頃の苦労が今、確かな成長として形になっていることを感じています。

料理人としてのスタート
― 心をこめる味に出会って

25歳のとき、私は本格的に料理を学びたいという気持ちが強くなり、独立を見据えて料理の道を真剣に歩み始める決意をしました。そのとき出会ったのが、まさに理想とする料理人でした。そのオーナーシェフの作る和食は、ひと口で心がほどけていくような、温かくて優しい味。初めてその味に触れたとき、私は「これだ」と心の底から思いました。ある日、そのオーナーとお酒を飲みに行った席で、ふと「誰か料理をしたい人はいないかな?」とつぶやかれた瞬間、私は迷わず「やりたいです」と手を挙げました。それが、私の修行の始まりでした。
修行の日々は決して甘くありませんでした。厳しい言葉を受けることもありましたが、それ以上に学ぶことが多く、オーナーの背中からは技術以上のものを感じました。どんな状況でもベストを尽くすこと、準備の大切さ、気持ちのこもっていない人間はお客様の前に立ってはいけないという姿勢。料理に向き合う“心”の在り方を、私はそこで教わったのです。
ある日、オーナーから一振りの包丁をプレゼントされました。そこには「心」という文字が彫られていました。その瞬間、私はただ料理を作るのではなく、料理を通して相手に想いを届けるということの重みを感じました。今でもその包丁は私の宝物であり、どんなに困難な状況でも「心を込めて向き合う」原点へと私を立ち返らせてくれます。オーナーは、ただ技術を教えてくれたのではありませんでした。人として、料理人として、最も大切な「心」の在り方を教えてくれた。その教えは、今もなお、私の料理の芯として生き続けています。

大阪修行の日々
― 技術と人としての成長

25歳で本格的に料理の道に入り、心のこもった味と出会った私は、次第に「自分が本当に作りたい料理とは何なのか?」という問いを強く抱くようになりました。その答えを見つけたい一心で、28歳のとき、愛媛を離れて大阪に修行に向かう決意をしました。知人の紹介を頼りに、さまざまな店を訪ね歩き、その中で一軒、心から惚れ込んだ店に出会いました。優しい味わいの中にしっかりとした旨味が感じられる、温かさと奥行きを兼ね備えた料理。それを味わった瞬間、「この店で学びたい」と直感しました。私はすぐに直談判をし、運よく採用してもらえることになったのです。
修行が始まると、技術面だけでなく、人としての在り方も同時に磨かれる日々が待っていました。イタリアンは和食とはまた違う調理法や立ち振る舞いが求められ、最初は戸惑うことも多くありました。それでも一つひとつを丁寧に積み重ねていくことで、少しずつ自信が芽生えはじめました。お客様と会話を交わす機会も増え、温かい言葉をいただくたびに、「料理を通して人とつながる喜び」を実感していきました。そんな中、オーナーからの一言が今でも心に残っています。
「どんな立場になっても、謙虚さを忘れず、己を磨き続けること」
その言葉は、料理人である前に“人としてどう在るか”の大切さを教えてくれました。
「何を食べるか」ではなく「誰が、どんな想いで作るのか」。
自己満足ではなく、相手への想いが込められた料理こそが、人の心に届く。
料理の本質は、やはり“心”なのだと強く確信した瞬間でした。
また、ある常連のお客様からは、こんな言葉をいただきました。
「恩返しではなく、恩送りをしなさい」
師から弟子への恩は、次の世代に渡してこそ意味がある。その教えが、私の中に深く根を下ろしていきました。
もちろん、楽しいことばかりではありませんでした。慣れない土地での生活、厳しい仕事、心が折れそうになる夜も何度もありました。帰郷を考えたこともありました。
そんな時、ひとりのお客様が、ひすいこうたろうさんの本を手渡してくれました。その中に書かれていた一文。
「すべては自分の物の見方で決まる」
この言葉が、私の思考を大きく変えました。
苦しい状況も、自分の「見方」次第で意味が変わる。思い込みを手放せば、目の前の現実は少しずつ前向きに変化していく。その日から私は、目の前の当たり前に感謝する訓練を、日々意識的に繰り返すようになりました。こうして私は、「料理の技術」や「経営の力」と同じくらい、いやそれ以上に「人間力」の大切さに気づいていったのです。どんなに美味しい料理も、そこに込められた“人”の在り方がすべてを決める。料理人としての成長は、人としての成長と切り離せない——そう実感した、大阪でのかけがえのない修行時代でした。

料理を超えて、生き方を学んだ時間

大阪での修行時代、私が学んだのは「料理の技術」だけではありませんでした。何より大きかったのは、“人としてどう在るか”の大切さです。料理人として成長していく中で、ずっと心の軸になっていたのが「人間力」。ではその「人間力」とは何か――それは、謙虚さであり、自分自身と真っ直ぐに向き合い、今の自分をそのまま受け入れる力だと感じています。
もうひとつ、大きな気づきがありました。
「人は、自分の力だけで成長できるわけではない」ということ。つまずいたときに声をかけてくれる人。時には厳しい言葉で目を覚ましてくれる人。いつも見守ってくれる家族。そして、応援してくださるお客様……ふと周りを見渡すと、たくさんの人たちがいて、その一人ひとりの存在が、今の自分をつくってくれていたのだと心から感じました。だからこそ、私は決めたんです。「自分本位の料理を出すお店にはしない」と。料理を通して、誰かの心にそっと寄り添い、その人の一日に小さな温もりを添えられるような、そんな料理を丁寧に届けていきたい。そして、共に働くスタッフにも本気で向き合い、「自分も、いつかこんなお店を持ちたい」と思えるような、夢を育てられる場所にしたいと考えています。
私がこれまで出会ってきた人たちから本当に教わったのは、「技術」ではなく「生き方」でした。
今、心からそう思っています。

松山に帰る決意
― 自分の店を持つという夢

料理人としての修行を終えた私は、生まれ育った松山に帰ることを決めました。――33歳のときのことです。
地元で自分の店を持つこと。それは長年描き続けてきた夢でした。帰郷後の2年間は、その夢の実現に向けて、できることを一つひとつ積み重ねてきました。知り合いのお店を借りてイタリアンのコースを提供したり、さまざまなジャンルの方とのコラボイベントを開催したり、出張シェフとしてお客様のもとに伺ったりしました。料理の幅を広げ、多くのご縁をいただく中で、私はもう一度、原点にも立ち返りました。
それは、「料理を志すきっかけになったパン作り」でした。
朝はパン屋さんで働き、昼から夜にかけては料理の仕事。そんな日々の合間をぬって、物件を探し続けました。

しかし、現実は甘くありません。コロナ禍が明けても景気は戻らず、どれだけ探してもご縁につながる物件には出会えませんでした。そんなとき、修行中に学んだ言葉が心に浮かびました。「壁にぶつかったときは、視点を変えてみよう」
その言葉を思い出し、発想を転換しました。飲食店跡地ではなく、美容室の跡地に目を向けてみたのです。理由はシンプルでした。ガラス張りで光がよく入り、お客様が明るい気持ちになれる空間がつくれると感じたからです。
そして、ようやく出会えた一軒。イメージがどんどん膨らみ、心がワクワクするのを感じました。すぐに申し込みました。
しかし、結果は「落選」。理由は分からず、ただ「通らなかった」という通知だけが届きました。その瞬間、本当に絶望しました。でもそのとき、一本の電話が鳴りました。
「もう一度、挑戦してみたらどうか」
その言葉に背中を押され、私はもう一度立ち上がる決意をしました。熱意を込めた事業計画書をつくり、「どうか一度、僕の料理を食べていただけませんか」と、家主さんにお願いをしました。そこから、さらに半年。あきらめずに行動を続けた結果、銀行の融資も決まり、家主さんにも想いが伝わり、ようやく承諾をいただくことができました。やっと、スタート地点に立てた瞬間でした。さらに驚いたのは、その後のことです。
なんとその物件の家主さんは、私が20代のころに通っていた居酒屋の常連さんのお兄さんだったのです。しかも、その常連さんが、陰ながらオーナーに後押ししてくださっていたことも知りました。そのとき、心の底から思いました。
「人生には、すべて意味がある」
ただの偶然なんかじゃなかった。長い時間をかけて、めぐりめぐって、想いはちゃんとつながっていたのだと。

これからの夢
― 心に寄り添う料理人として

2024年2月22日。たくさんの人たちに支えられ、ついに念願だったお店を開くことができました。店の名前は「Ueda」。当初は「イタリア料理 Ueda」と名乗るつもりでいました。でもあるとき、ふと気づいたんです。「イタリア料理を食べに行こう」ではなく、「上田くんの料理を食べに行こう」――そんなふうに思ってもらえるような人間でありたい、と。だからこそ、あえて料理のジャンルは冠しませんでした。それは“料理という枠を超えて、自分自身の生き様を届けていく”という覚悟の表れでもあります。すべての人の人生には、それぞれにいろんな過去があります。嬉しいこと、つらいこと、時には人に話せないような痛みを抱えていることもあるでしょう。でも、その過去を「いい過去」にできるかどうかは、“今の自分がどう選ぶか”にかかっていると、僕は思っています。あきらめなければ、きっと道は開ける。意味のなかったことなんて、ひとつもない。そう信じて、ここまで歩んできました。これからの僕の夢は、誰かの心にそっと寄り添えるような料理をつくること。そしてもうひとつ、「自分も、こんなふうに夢を形にしていきたい」と思ってもらえるような、誰かの“夢を育てる人”になることです。
まだまだ、道の途中。だからこそ、目の前の一皿に心を込めて、丁寧に向き合っていきます。お店に足を運んでくださる誰かの人生の、ささやかな一日に、そっと灯をともすような――そんな料理を、これからも届けていけますように。